祈りの海

祈りの海 (ハヤカワ文庫SF)

祈りの海 (ハヤカワ文庫SF)

グレッグ・イーガンの短編集。『しあわせの理由』より前なので文章のキレは少し劣るも、イーガン得意の闊達流暢な文章回しはすでに自在の域。


「貸し金庫」――「ありふれた夢を見た。わたしに名前がある夢を」。精神だけが次々と宿主を替えて渡り歩く運命に縛られるのは、どんな気分だろう。己の人生を諦めかけた主人公が見出した一筋の希望と決心に幸あれ。
「キューティ」――本物の子供の代替品、超高価なペット、4歳で必ず死ぬ赤ん坊があなたのものに。養子が検討されないのは、血〜遺伝子の繋がりが欲しいのかな? 猫を飼おうぜ。
「ぼくになることを」――宝石シリーズ初話? 経験・記憶バックアップ装置〈宝石〉を脳に埋め込む時代。自前の脳から〈宝石〉へのスイッチは何を意味するのか。イーガンのアイデンティティ哲学が表現された短編。
「繭」――胎盤バリアを強化し母体の汚染物質から胎児を守る〈繭〉の研究所が爆破された。犯人の意図、背後の陰謀は? 正常/異常の境界を変更する正当性は誰の手に……この点では『フレームシフト』よりスマートな語り口。性同一性障害を話に絡めるのがイーガン流。
「百光年ダイアリー」――誰もが自分の未来日記を読める時代となったなら。〈未来の自分〉が送ってくる記述に従う? そして、過去の自分に未来の真実を伝えますか?
「誘拐」――ある富豪に妻を誘拐したと身代金要求の映話が届く。しかし妻は在宅していて……最初は悪戯と笑い飛ばすが。囚われの〈コピー〉は、妻同様の思考や感情を持っているのか? 『順列都市』と同じ世界観ぽいです。
「放浪者の軌道」――ストレンジ・アトラクタって、マニアックなネタやなあ。複雑系をかじった人ならピンと来るんですが。
ミトコンドリア・イブ」――母親由来のミトコンドリアDNA家系図を作れば、論理的に必ず現存人類全てが原初の女性たるイブに遡れるはず。人類は一つのイブの元で結ばれると説く〈イブのこどもたち〉。もう宗教。Y染色体でアダムを探す対抗一派も出てきて、主人公はEPR相関から〈先祖戦争〉に決着をつける羽目になるが。真実は政治的利用には向かないね、というオチ。
「無限の暗殺者」――多重並行世界で目標を抹消しに向かう暗殺者の話。こっちは『宇宙消失』同様の世界観ですな。
「イェユーカ」――テクノロジーが進歩しても恩恵に与れない患者。主に後進国で。これまた経済学が医学に勝る話。うん、医者ってこうだよね。最初は物見遊山気分でも、苦しむ患者を見捨てておけない。彼らの解決策とは。「……理解できさえすれば、どんな病も癒せることを、ぼくは知っていた。」
「祈りの海」――二万年前に惑星コブナントに移住し、聖ベアトリスを信奉する人類の子孫。敬虔な主人公が知った真実とは。『しあわせの理由』同様、生物化学的な感情操作を扱ったイーガンの御家芸。宗教経験の恍惚感を題材とし、素晴らしい描写でヒューゴー/ローカス賞を受けた表題作。信仰と科学の相克に苦しむ主人公は、まさに歴史の縮図を体現している。ラストの会話が秀逸。「あなたは神を信じていますか?」「子どもの頃は信じてた。だが、今は違う。神ってのは、なかなかいい思いつきだが……まるで意味をなさん」「では、生きることがつらすぎはしませんか?」「四六時中ってわけじゃないさ」。