哲学っぽい何か


こっから先は、趣味の哲学メモです。興味のない人には本気でどうでもいい戯言なので、無視してください。


クオリア - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A2

クオリア(英語: Qualia)とは、意識体験の内容のことである。「感覚質」(かんかくしつ)とも呼ばれる。


下記サイトのほうが、より分かりやすいかな。


クオリア - 哲学的な何か、あと科学とか
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/kuoria.html


赤い花を見たときの「赤い」感じ。痛みを感じたときの「痛い」感じ。主観的にしか感じ得ない、その質感をクオリアといいます。
日本では、茂木健一郎が言ってましたな。
デネットから入った私としては、クオリアは擬似問題に近いのではないかと思ってます。
つまり、この「赤い」感じというのは、感じる人それぞれによって色調が対象に結びついた偶然の産物であると。クオリアは、感じる人のそれまでの色経験/認識/教育によって異なってくるはずです。たまたま「赤」で同様の対象を示せるのは、大多数の人間では色認識に関する脳のニューロン構造がほとんど同じだから。もし脳の結線が異なれば(あるいは何らかの病気や事故で変わってしまえば)、色が違って見えるのも当たり前、という考え方を今の私はとりたい。<何てイーガンぽいんだ(笑
哲学的ゾンビは存在しない――あらゆる点で"完全に"人間と見分けがつかない挙動を示すモノは、それは人間と同じ内的体験を持っているとしか考えられない。逆に、そう考えなければ、あなたの周囲の人々が内的体験を持っていることをどうして信じられるのか? あなたの隣人と哲学的ゾンビをどうやって見分ける?(それ、無理。) 独我論に逆戻りじゃないの、てことです。
また、白黒のマリーの部屋から解放されたマリーは我々と同様な色体験を得られないんじゃないか、つまり、生まれたときから白黒の部屋しか見ていないマリーは、色鮮やかな世界を見ても最初は「白黒」としか認識できないんじゃないか。その後、新たな色体験で脳内のニューロンが変化するとともに、赤・青・黄……などの色知識を<初めて>学んで理解していくんじゃないか。と考えるわけです。
でも一応チャーマーズぐらいは読んでおこうか。両方の立場を知らないと意見も言えないしね。


□ゾンビは論理的可能性ですらないか?
http://web.kanazawa-u.ac.jp/~philos/zombi.htm


でも、逆転クオリアへのチャーマーズの反論:減衰するクオリアの概要だけ見ると、なんかトリックくさいんだけどなあ。
脳内のニューロン/シリコンチップの過渡的置換についての仮定はまあいいとしても、要はこれって哲学的ゾンビの存在を仮定すれば直観的にはありえないだろう矛盾が生じるってだけで、つまり哲学的ゾンビはありえないってだけじゃないの?
なんでそこから、だから物理を越えた意識が存在するのだ、という論に飛躍するのかが分からない。やっぱり、きちんとチャーマーズを読まないといけないようですな。


それに、これってある種、意識の発生についてなぞった思考実験にも見えますし……。
45億年前生まれた地球上には意識などない。現在の私たちには意識がある。その中間のどこかで、意識は生まれたはず。さて<最初の意識>はいつどこで生じたのか?
『眼の誕生』とか読んじゃうと、やっぱり意識ってのは、脳だけでも、脳-身体だけでも発生せず、脳-身体-環境の相互作用に即して発生・発達するものだと感じてしまいます。
<私>、今考えている<この私>の在所は、私の脳内や私の身体内部"だけ"では完結しない。その中にない、とは言わないけれど、その中"だけ"ではない。もっと他の外部も含めないと<私>は見つからない。……ある意味、当たり前の話。


しかし、いい年こいて何を書いてるのだか(笑