『ライトノベル「超」入門』(新城カズマ)



大雑把から細かい解説まで、全方位的なフォローがされており読みやすいです。何か分かった気にさせられてしまう(笑


ライトノベルラノベ)は受け手の違和感から生まれた名称で、送り手(=創作者)側は「自分はラノベを書いてる」という認識を余りもってないこと(「面白い作品を志しているんだ」)とか。命名当時の候補に「ニートノベル」があった(!)とか、そんな話から始まって。
ラノベの突破口が「スレイヤーズ!」であるとか、主だった作品(本当の本当に絞り込んだ数点)――ロードス、タイラー、ブギー、キノ、風の大陸、カイルロッド、ARIEL、吸血鬼ハンターDとかそこらの紹介。イラストの話。


注目すべきはここでも、ゲーム的発想の影響でしょう。つまり、エンディングが一つに固定されなくなった物語、もしくは物語群(マルチエンディング)からは……こういうストーリー、というよりは。こんなキャラクターは、こういう場面ではこう行動する(だろう)という、キャラクター中心の行動様式が中心に据えられていくのですね。〈属性〉によるキャラクター理解に触れて「性格=行動=アイテムや外見」という式を提示してます。

「登場人物=内面があって葛藤と選択をするような人格」
という手法よりも、
「キャラ=こういうシチュエーションではこういう言動をみせそうな、いかにもそんな外見の人物」
という手法の方が便利だ、と気づきはじめた。
(略)物語表現の歴史をふりかえれば、まずは能・狂言・歌舞伎といった一連の舞台芸術がすでに数百年前、「面」や「隈取」でほとんど同じことを成し遂げています。(略)当然ながら京劇にも、オペラにも、バレエにも同様のものがありますのは、みなさんすでにお察しのことでしょう。


(本書、pp.136-137より抜粋)


個人的解釈:物語を一から考察し組み上げるのではなく、キャラから導かれる「物語モジュール」をユニットとして組み合わせる、そういう方式が文章世界にも浸透してきた。というのが左馬的解釈。

他にも少女漫画が20年前に通ってきた道とか、キャラ人数は4−7人程度が最適とか、ラノベには原典をパロディにしたり引用したりする文化があるとか、おたく的な物の見方とは「邪推する権利」ではないか――「○○って言ってるけど、本当は××なんじゃないの?」と斜めに見る技法(このキャラって、実はあのキャラに「束縛/従属/偏愛」したり/されたりしてるんじゃないの?)ではないか、などなど寄り道もたくさんしながら平易に語ってます。分かりやすく感じますね。


最終章では、ラノベ批判(「台詞ばかり」とか)に対し「非ラノベ」でも同様の記述方式があると指摘して見せ、そもそも「子供に教えるべきフィクション」「ためになるフィクション」などを探すよりは、単純に「読んで面白いフィクション」で良いのではないかと回答しています。それだけ日本が平和な証だと。SFとかミステリとかホラーとかファンタジーとかジャンルを越えて、「ふつーの良質な青春小説」が求められている(『バッテリー』とか『博士の愛した数式』とか)という予測+希望(「ゼロジャンル」という作者の造語)を提示して終わってます。


総じて非常にとっつきやすい、間口の広いラノベ解説書だと感じました。ライトノベル関連年表などもついてるので、解析入門編として使えなくもないです。興味がある方は、手にしてみてはいかがでしょうか?

さて、レポートに戻るか。